心の基盤は「安心できること」

心・感情

人は皆安心感を求めている

私たちは究極のところ、何を求めて生きているのでしょうか?

一つには「安心すること」があると私は思います。

どのように大きな野望も、それを達成すればほっとできる、つまり安心できる、反対にそれができないと安心できないから、その欲求に執着する、欲望の充足が安心感をもたらすという構造があるような気がします。

他の人を下に見て喜ぶ人の心理も、そうすることで自分が安心感を得られるからでしょう。母親に愛されずに育った男性は、ぬくもりという安心感を求めて女性に執着するかもしれません。富や名声に固執する人は、中毒的ともいえますが、固執することで不安状態をまぬがれているということもあるでしょう。怒りや嫉妬も、安心感が覆された状態です。

人間のモチベーションには、安心したいという気持ちが根底にあるのではないでしょうか。どうやって安心していられるかということは、人生の大きな問題だと思うのです。

幼児期の安心感が心の糧となる

幼い時に安心感を得ることは非常に大事です。それが人の心の基盤となり、何か困難にあっても、乗り越えられる心の糧となります。反対に安心感を得られないと、その後の人生でどこか不安な要素を抱えていく(例えて言えば、不安定な土台に立った家のようになる)場合が多いのです。

子供の頃に満たされなかった安心感は、その後、何らかの形で、得られなかったものを補おうとするパターンを作ります。つまり、人や物、性、食べ物へ依存して安心感を得ようとしたり、特定のタイプの異性に対する執着となって現れたりします。自分の心の中に安心感を見出さない限り、注意は外へ、外へと向かい、外から安心を得ようとするわけです。しかし、自分以外のものは完全にコントロールすることは不可能ですから、苦悩と不安は逆に大きくなっていってしまいます。

安心は生命のみなもと

安心できる、ということは、リラックスできる、ということ、緊張していない、ということです。このブログでは、緊張感を解くこと、心をゆるめることの大切さを随所でお伝えしていますが、そのゆるんだ状態が「安心感」につながります。

「安心」というのは、「あんじん」と読んで、もともと仏教用語です。なぜ悟りを求めるかというと、自分という存在が何なのか、なぜこの世に存在しているのか、という究極の問いに対する答えを体験的に見つけて、安心したい、うつろいゆく世界の中でも動じない「大安心」の境地に達したいからなのです。安心ということは、生命保全から、人生の究極の目的まで、深く私たちの生活にかかわっていると思います。

感情を解き放つことで安心を得る

子供の頃に安心感を得られなかったら、不安なままなのか、というとそうではありません。セラピーでは、トラウマ解消したり、子供の頃の苦しかった感情を開放していくことで、安心感が育まれていきます。それが、土台が不安定だった心の修復になります。

また、神経がもともと過敏で不安になりやすい性質というものも存在し、それほど大きな感情的出来事でなくても、心のバランスを崩して緊張と不安の方向に向かいやすいことがあります。その場合、自分を安心させることができるように、落ち着きを取り戻す訓練をすること、神経の興奮を鎮めることも、現在までの主だった苦しい感情の開放と合わせてやっていくと、楽になり、安心できるようになっていきます。

心から安心できれば、精神症状はなくなっていく

自分の心の中に安心感を見出す、ということは、心を扱う上で非常に重要なことです。精神に関する病名はたくさんありますが、理由はいろいろあるにせよ、安心できない心の状態になっていることには共通点があると思います。不安障害はもちろん、うつにせよ、依存症や強迫性障害にせよ、どこかでその人の安心感が脅かされているのです。

病名は役立つこともありますが、病気、という考え方で心がかえって委縮し、緊張感が増し、逆効果になることもあります。ですから、私は緊張感を解くこと、安心感を得ることができれば、精神症状の多くは解決すると説明しますし、実際にそれが私の臨床的な経験でもあります。心理療法は、そのためにあるのです。安心した状態では、人の心はほどよいバランスを保っていられるのです。


参考記事:
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緊張感を解き、心をリラックスさせる方法
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